2015年

2015年12月24日

12月も後半になりました。今年は25日まで授業があり、そのあと冬休みです。
22日に研究室の中間発表会を行いました。10月から毎月行っているのですが、修士論文や卒業論文の提出締切まであと2か月余りなので、今回はプレゼンの仕方にも注意して指導しました。順調に進んでいるものもあれば、ラストの猛ダッシュが必要そうなものもありますが、どの発表も一生懸命さが感じられました。研究室でのこの活動を通じて、大きく成長して欲しいと思います。

発表会のあとは、湯田温泉に移動して忘年会をしました。徹夜で体調が万全でなくお酒を控えめにしている学生もいましたが、どの学生も発表が終わってほっとしたようで、盛り上がった会でした。
1次会と2次会の間に30分あったので、足湯に浸かって時間を移動を待ちました。足湯の主のようなオジサンがいて、腰を下ろす木の部分を濡らすと、えらく怒られ、タオルでせっせと拭いていました。

来年もこのつぶやきは続きますので、よろしくお付き合いください。よいお年をお迎えください。

 

2015年12月07日

12月になりました。6日の日曜日は、幕末関係の講演会を2つハシゴしました。午前は10時30分から、山口情報芸術センターで行われた「大村益次郎~花神ふたたび~」に参加しました。花神(かしん)は確か私が高校生のときにNHK大河ドラマで放映されていて、山口が舞台でしたので、毎週かかさず見ていました。大村益次郎のことは、このつぶやきにも2回書いています(2014年9月9日2015年6月15日)。
講師の松前了嗣氏の講演を聞くのはこれで3回目ですが、幕末のできごとを分かりやすくかつ楽しく説明され、今回もその巧妙な語り口で会場を賑わせていました。特に、幕末に興味を持ち始めた初心者の方にはオススメです。今回の内容は、大村益次郎の生涯を辿っていく歴史講座でした。

午後からは、下関市立長府博物館学芸員の田中洋一氏の講演を聞くために小郡文化資料館に移動しました。講演題目は「晋作決起と内訌戦」です。晋作決起は1864年12月に起きた有名な「功山寺での決起」のことで、内訌戦とは、奇兵隊らの諸隊が萩政府軍と戦った「太田絵堂の戦い」のことです。田中氏は幕末の資料に基づいた論理的な話を展開され、とても勉強になりました。沢山新しいことを知ったのですが、幾つか挙げますと、

    • 第一次長州征討で戦争にならず穏便に済んだことには、岩国の吉川家の働きが大きい。
    • 今は周布政之助らは正義派、椋梨藤太らは俗論派といわれているが、1864年の頃は椋梨らが正義派で、周布らは因循党(過激な集団)と言われていた。
    • 太田絵堂の戦いは諸隊と萩本藩の戦いであり、諸隊が勝利したというわけではなく、支藩の長府藩や清末藩による仲裁でこの戦いが終わった。

歴史小説やテレビなどでは描かれていることも、学問として扱うと随分と違った見方があるもんだと実感しました。

さて、今年は大河ドラマ「花燃ゆ」が放映され、大学も創基200周年ということで、このつぶやきで幕末話を書いてきました。来年のネタを探さないといけません。どうしましょう?

 

2015年11月25日

システム生物学の国際会議に参加するため、シンガポールに行ってきました。20日の授業を17時40分に終えて、山口宇部空港から羽田空港に移動し、東京で一泊して21日にシンガポール便に搭乗しました。
シンガポールは今回で確か4回目ですが、交通の便も治安も良く、食べ物も美味しく、過ごしやすいところです。なにより、時差が1時間しかないので、身体にストレスが無いのが助かります。

会議は23日の月曜日からでしたので、22日の日曜日は同行した国際総合学部の杉井先生と"セントーサ島の巨大マーライオン"を見にいきました。このマーライオンは大きくて見栄えがするのですが、本物ではありません。本物は、シンガポールのマリーナ湾にある"小さい方のマーライオン"です。6月のブリュッセルの小便小僧に続いて、今年は世界三大がっかり名所の2つ目見ることができました。

会議では、杉井先生とポスター発表を行ないました。私と同じ研究室のアドリエン先生がマルセイユ大学で指導を受けたDenis Thieffy博士とChaouiya Claudine博士も話を聞きに来てくれました。久しぶりに2人に会えたので良かったです。

この文章はシンガポールの空港で書いています。あと1時間ぐらいで帰国便に搭乗です。夜中の出発で6時間ぐらいのフライトなので、あまり寝れないのが難点です。山口宇部空港に着いたら、大学に直行し、午後から研究室の中間発表会です。

2015年11月4日

「面白きこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり」
この詩の前半は高杉晋作が下関でこの世を去るときに詠んだもので、後半はそこに立ち会っていた野村望東尼が付け加えたものと言われています。野村望東尼は、福岡の平尾山荘にひっそりと暮らしていた幕末に活躍した福岡の女流歌人で、花燃ゆにも登場しました。

先週の土曜日にその平尾山荘に行ってきました。西鉄福岡駅から2駅目の西鉄平尾駅から徒歩で約10分ところにあり、今では賑やかな住宅街となっています。昨年12月1日のつぶやきで書きましたが、ここは俗論派に命を狙われていた高杉晋作がかくまわれていたところです。高杉の死後、望東尼は、下関から山口へと移りますが、最終的に居住した防府で1867年11月6日に亡くなります。この命日にはここでも「平尾望東祭」が行われるようで、駅前や平尾山荘公園にはのぼりが立てられていました。

防府の望東尼の終焉の地には石碑が建てられており、お墓は楫取素彦・美和子夫妻の墓と同じ桑山にあります。今年の7月18日に防府で開催された野村望東尼研究家の谷川佳枝子さんの講演会に出かけましたが、野村望東尼を知ったのは最近のことですので、そんなに参加者はいないだろうと思っていました。しかし、200人は超えていたでしょうか、大きな会場にいっぱいの人がいて驚きました。防府の人たちには野村望東尼は特別なのですね。

 

2015年10月13日

先週は行事や出張の多い週でした。10月5日の月曜日は、午前中の会議を終えたあとに福岡市に出かけ、科研費新学術領域研究「合成生物学」の全体会議に出席しました。このプロジェクトは今年が最終年度で、これまでの研究成果を発表し、山口に帰りました。
翌10月6日火曜日は、大学で会議を2つばかりこなした後に、新幹線で大阪に移動しました。奈良先端大の森研究室との打合せの為です。その夜は農学部の山田先生、高坂先生も一緒に森先生らと夕食を取り、7日水曜日は朝から奈良先端大で打合せし、私は少し早めの15時にその場を離れて、山口に戻りました。
10月8,9日の木金曜日は、東京で行われる理学部長会議のため、朝から飛行機で移動しました。昨年に引き続いて2度目の理学部長会議です。ノーベル物理学賞で日本人が受賞した後でしたので、その話があちこちでされていました。昨年もノーベル物理学賞を3人の日本人が取ったのですが、その研究は工学系でしたので、昨年のこの会議では全く話がでませんでしたが、さすがに今年は違いました。

10月10日土曜日には、教え子の山本屋君の結婚式が宇部でありました。最近の結婚披露宴はショー化されていてとても楽しめるのですが、手作り的な場面も随所にあって、いい披露宴でした。彼の同級生たちにも久しぶりに会えて、楽しく過ごすことができました。山本屋君、麻里さん、おめでとうございます。

1週間のイベントの締めは、11日の日曜日にあった湯田温泉酒祭りです。今年もいつもの酒飲み仲間とテーブルと椅子を持ち込んで陣取りました。理学部と事務局の職員の中村さん、小田さんも一緒で、酒祭り開始の11時から飲み始めました。途中で、副学長の田中先生、理学部の原先生とその奥様、それに情報分野の野﨑先生も参入しました。中原中也記念館前では、地球科学の大和田先生、志村先生、大橋先生たちが宴会中で、私も参入させてもらいました。来年もぜひ参加しようと思います。

先週は、頭も、身体も、肝臓もフル回転でした。これから11月19日まで出張はありません。それまで落ち着いて仕事します。

 

2015年10月5日

10月3日の土曜日に、理学部後援会の懇談会が行われました。理学部後援会は、在学生の保護者の会で、学生教育上の支援、就職活動の支援、学部内の環境整備など、理学部の運営のために大きな支援をして頂いています。
7月に行われた役員会で、「子どもたちが学んでいる場所を見てみたい」「先生かたと話をする機会が欲しい」との意見がでたことを受けて、今年初めて開催しました。

学部全体で約90名の参加者があり、全体会と学科別懇談会の後に学生食堂ボーノで行われた懇親会にも約50名の参加がありました。また、各分野の施設説明や、研究の紹介も行われ、情報科学分野ではシステム情報科学研究室の研究内容について、内野先生と2名の大学院生が説明しました。
懇親会は予想以上の活気が見られ、どの分野のテーブルでも、保護者の方々と教員の間で話が盛り上がっていました。

幾つかの反省点もありますので、その点を改善して、来年も実施したいと考えています。

 

2015年9月14日

いま中国の上海でこの文章を書いています。留学生センターのセンター長でもある教育学部の葛先生と昨日と今日に杭州にある浙江大学と浙江理工大学を訪問し、明日の帰国便待ちのためにここに滞在しています

浙江大学を訪問したのは、李晨さんと研究打合せをするためです。彼女は、葛先生の指導により修士の学位を授与された後に、2004年に博士を取るために私の研究室にやってきました。今は、浙江大学の副教授で、この大学は中国で五本の指に入る有名大学です。打合せが終わってから、実験室を見学させてもらいました。学生達とも話しましたが、李さんが立派な先生になっていて、嬉しく思いました。

翌日には、同じ杭州市内にある浙江理工大学を訪問しました。今後の学術交流について意見交換をするためです。葛先生が大学全般の国際交流の話をしたあとに、私から理学部や大学院の話をしました。私は中国語は喋れませんので、英語で説明し、葛先生に中国語で補足説明をしてもらいました。理学院院長や経済管理学院院長を始めとする約10名の方達と意見交換をすることができました。
理学部も韓国や台湾を含む東アジア、東南アジアとの連携を強めていかなくてはなりませんので、この訪問を活かして国際交流を盛んにしていきたいと思います。

中華料理も堪能しましたが、いちばん驚いたのが、「電動自転車」です。写真を見て下さい。どうみてもこれはバイクですよね。値段が安く、免許も要らないそうで、家族などが2,3人乗りで、街をどんどん走っています。エンジン音がしないため、近づいて来ても気づきにくく、そのうち規制されるのではないでしょうか。

 

2015年9月7日

9月になり、あの異常な暑さも通り過ぎたようで、少し過ごしやすくなってきましたね。6日の日曜日に、井上公園を中心に開催された湯田温泉麦酒会に行ってきました。井上公園は、長州ファイブの一人である井上馨の生家があったところで、今年その離れであった何遠亭が復元されていました。

この日は朝から雨が降っていましたが、開始時間の11時には雨も上がり、近所の人たちと一緒に、テントや店をあちこち覗きながら、昼の2時過ぎ頃までビールを楽しみました。湯田温泉の新しい交流施設の「狐の足あと」にも初めて入りました。ビートルズの音楽を流している店も新しく見つけることができました。

2時半頃に山口線で湯田温泉を離れたころに、ちょうど雨が降ってきました。私は参加したイベントで殆ど雨にあったことがありません。今回も「晴れ男」が証明されました。必要とあれば、てるてる坊主の代わりにお呼びください。ただし、雨が降っても責任はとれません。

 

2015年8月18日

お盆休みはどう過ごされましたか。例年と同様に高校の同窓会に行く予定でしたが、ちょっとした都合で行けなくなり、いつもの幕末史跡巡りのため下関と小倉に行ってきました。

下関駅近くに車を止め、そこから自転車で、奇兵隊結成の地の白石正一郎宅と、高杉晋作終焉の地に向かいました。高杉晋作の史跡としては東行庵(2014年12月1日のつぶやき)が有名ですが、晋作はよく活動していたのはこの界隈のようです。桜山神社に行く途中で晋作の療養の地を見つけました。下関市内が見渡せる景色のいい高台の上にありました。
桜山神社には、日本最初の招魂場があり、吉田松陰、高杉晋作、山県有朋ら、下関攘夷戦、四境戦争、戊辰戦争で戦死した者を始め、尊皇倒幕運動で亡くなった長州藩士が祀られています。高杉と争った赤祢武人(1月5日のつぶやき参照)の碑はありませんでした。東行庵にもやっと平成7年にお墓が建てられたのですから、ここにも碑を建ててあげてよいのではないでしょうか。

それから車に自転車を積んで、小倉に移動し、四境戦争の小倉口の激戦地であった赤坂に立ち寄りました。ここで奇兵隊は多くの戦死者を出しましたが、自ら遺体収容もできず敵である肥後軍の横井小楠(しょうなん)らが手厚く葬ったそうです。これまで訪れた、石州口(2014年9月29日のつぶやき)、大島口(2015年1月5日のつぶやき)、芸州口(2015年4月27日のつぶやき) ではこのようにはっきりとした諸隊の墓はなく、奇兵隊の活躍を知ることのできる数少ない場所の一つと思います。

 

2015年8月10日

7月28日~8月8日に阿知須のきらら浜で、世界スカウトジャンボリーが開催されました。世界中から、3万人以上が参加したそうで、山口市の中心部でも英語の地図を片手に歩く外国人を何人も見かけました。私も長く山口市民をやっていますが、このようなことは始めてです。

山口大学も出展ブースを設けました。理学部の担当は8月4日で、数理科学科の廣澤先生が「多面体の折り紙」を、時間学研究所の藤沢先生(物理担当)が「パラボラによる身体電波測定」を出展しました。
折り紙では、3人の学生達が外国からの参加者に丁寧に教えていました。外国人がうまく作れるか心配でしたが、私よりよっぽど上手に折っていました。Origamiは今では世界語ですものね。
パラボラに体格のいい男性と細身の女性が近寄って来ました。身体から出る電波をパラボラアンテナで測定しようという企画です。藤沢先生が測定してみると、予想に反して細身の女性の方が男性よりも強かったので、「なんでだ~」ということで話が少し盛り上がりました。

出展者のみなさん、猛暑の中お疲れさまでした。

 

2015年7月27日

今回は長州ファイブに関係する碑を3つ紹介します。
(写真1)は、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の中庭にある、長州ファイブと薩摩の学生19名の名前が刻まれている碑です。ロンドンでこの両藩の若者が交流していたわけですが、このころ日本では1863年に八月十八日の政変、その翌年に蛤御門の変が起こっており、長州と薩摩は険悪な時期でした。私が持っているのは山口大学のお酒「長州学舎」で、わざわざ日本から持っていきました。

あと2つは山口市内にある碑です。(写真2)は、今年の1月に、秋穂二島にある山尾庸三の実家の前に設置されていたもので、UCLにあるものと同じぐらい立派な碑です。土地所有の問題でここから移されることになり、いまは二島中学校にありますが、いずれ新山口駅前に移されるそうです。
面白いのが(写真3)で、中国自動車道山口インター近くの大内中学校のそばにあります。ここは昔に処刑場があったところで、大村益次郎が腑分けを行っており、それを記念した大きな碑も建てられています。大村が長州ファイブの渡航を支援したという関係で、この5つの石が置かれているのだと思いますが、ご覧のように、無造作な置きかたが、なんとなく意味ありげです。しかし、誰が、いつ作ったかなどの説明もなく、ナゾの碑です。どなたかご存じの方は教えてください。

 

2015年7月13日

今回と次回の2回に分けて長州ファイブのことを書きたいと思います。
長州ファイブのことをお知りの方は多いでしょう。山大にも吉田キャンパスに石碑が建てられています。伊藤博文、井上勝、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三の5名が1863年にロンドンに渡り、英国の産業や文化に触れて、攘夷が不可能であることを知り、帰国してからはそれぞれが日本の発展に尽くしました。これら5人のうち伊藤博文と井上馨は、長州藩が1年前に外国船を砲撃したことの報復が行われることを新聞で知り、急遽日本に帰国します。
防府市の富海には、2人が上陸した地に石碑が建っています。富海は海水浴場で、子供の頃に私もよく行きました。古い話ですが、南沙織の「17才」の歌詞の冒頭の「誰もいない海」の海は富海の海と言われています(作詞者の有馬美恵子さんが防府の出身です。)。2人が富海を選んだのは、さすがにメイン港の三田尻港から上陸するわけにはいかなかったからでしょう。

伊藤博文と井上馨は、富海から藩庁がある山口に向かいます。彼らは長州藩の役人達が住居として使っていた十朋亭(じゅっぽうてい)に入り、旅装を解いて英国の状況と攘夷の無謀さを伝えるために藩庁に向かったと言われています。しかし、彼らの話は全く受入られず、逆に命を狙われる立場になってしまいます。
徒歩や馬車で旅をしていた時代に、蒸気機関車が走っていたのですからね。それを見たら日本人は誰も英国とは戦争したいとは思わないでしょう。しかし、それを伝えるのは難しかったでしょうね。ネットやテレビがある今の時代ならば、すぐに分かることなのですけど。

 

十朋亭について(NPO法人大路小路まち・ひとづくりネットワーク)

 

2015年7月6日

私の研究室では、無線コンピュータネットワーク構築の研究もやっています。今年度は山口市の受託研究として、観光地への無線LANスポットの設置に取り組んでいます。一般の通信業者では設置に大きな費用がかかりますが、低コストで十分な性能のサービスを提供できる無線LANシステムを構築することが目標です。

6月15日に山口市の主要観光スポットで、五重塔のある香山公園で電波到達範囲を確認する実験を行いました。山口市役所の職員の方の立会いのもと、公園の端にあるトイレの上にマストを立て、その先端に取り付けたカメラの向きを変えながら、公園内を撮影します。段々マストを下げてこれを繰り返し、写真を見て公園内をカバーするのに十分なアンテナ高を決めます。このデータを基に、次回は無線LAN装置を付けて伝搬実験です。

7月3日には別の装置を使った実験を大学のグランドで行いました。この装置は無線LAN装置と合せて使うもので、これらの2つの装置を組み合わせれば、目標の低コストで性能のよいネットワークを作ることができます。今回はそのための基礎データを取りました。12メートルのマストを立て、学内2箇所に設置した相手局との伝送速度を計測し、なかなかよいデータが取れたようです。次は通信のためのソフトウエア開発です。

2015年6月23日

ブリュッセルにやってきました。典型的なヨーロッパの都市の町並みですが、落ち着いた雰囲気があります。
大学院生の水田君が国際研究会に出かける前に私のホテルにやってきました。スーツでばしっと決めて来ていましたが、通常、国際系の学会では普段着で参加するので、このことを彼に伝えておけばよかったです。
彼の発表は1番目で、なんとなく始まったという感じでしたが、練習も重ねていたようで、そこそこ淀みなく英語で発表が出来ていました。30年ほど前に私が初めて英語で発表したときを思い出しました。それに比べたら上出来の方でしょう。私もお役目で1セッションばかり座長をしました。

会場からホテル近くの駅に移動する地下鉄では、同じ研究会に参加していた2人の女性と一緒になりました。イタリアとルーマニアからの人たちで、研究の話もしましたが、ルーマニア語はラテン系でイタリア語と似ている、という話が印象に残りました。隣接してない国でもそうなのですね。

駅についてから、「世界3大がっかり名所」で有名な小便小僧を見に行きました。他の2つは、シンガポールのマーライオン、コペンハーゲンの人魚姫で、その2つとも行ったことがあるので、これで3箇所とも制覇しました。私の印象では、コペンハーゲンの人魚姫が観光地ぽくなくて、最もがっかりと思います。このあと、レストランに移動して2人でささやかな打ち上げをしました。もちろん、ベルギービールも頂きました。

明日にはもう帰国の途につき、私の便はフランクフルト、羽田空港経由です。水田君はアムステルダム空港経由ですが、そこから福岡空港への直行便なので、今度は彼の方が楽です。

 

2015年6月22日

先週の土曜日は恒例の理学部長杯ソフトボール大会がありました。木曜日と金曜日にまとまった雨が降り、開催できるか心配していましたが、土曜日には雨もあがり、午後にはグランドもなんとか競技ができるくらいに回復しました。

私は今年も事務チームで参加しました。昨年度は準優勝だったのですが、残念ながら1回戦で地球科学チームに負けました。2回打席に立てば1点もらえるという、年配者向けルール対応で出場したので、何も活躍はしていませんが。
結果は数理科学チームが優勝し、地球科学チームが準優勝でした。


この日の20時の山口宇部空港発の便に乗るために、閉会式後に会場を離れましたので、打ち上げには出られませんでした。運動後のビールを飲むために参加しているようなものなので、とても残念でしたが。


東京で1泊し、この文章は羽田空港で書いています。これからフランクフルト経由でベルギーのブリュッセルです。そこで開催されるシステム生物学の国際研究会に参加するためです。大学院生の水田君がプレゼンを行います。彼は私より1日前に出発し、タイのバンコク経由の南周りフライトだったので、随分と時間がかかったようですが、自力でブリュッセルのホテルに到着しました。どこにいても連絡がとれるので、ネットは便利ですね。
私は北のシベリアを通ってヨーロッパ入りです。あちらに着いたら、また街の様子とか会議の状況を書きたいと思います。ソフトボールの打ち上げで飲めなかった分、ベルギービールも楽しんでこようと思います。

 

2015年6月15日

先週の金、土と大腸菌を使った人工遺伝子回路の研究打合せのために奈良先端科学技術大学院大学に行ってきました。土曜日の帰りに少し大阪に立ちより、適塾跡に行ってきました。

適塾は蘭学者緒方洪庵が1838年に開いた塾で、大阪大学はここを出発点としています。慶応義塾創設者の福沢諭吉もここの出身で第10代塾頭を務めました。私がここを訪れてみたかったのは、大村益次郎もこの適塾の第4代塾頭だったからです。大村益次郎のことは、2014年4月19日9月9日のつぶやきで書きましたが、彼は山口明倫館兵学寮の教授を務め、幕府と戦うための長州藩の体制を築き、四境戦争の石州口では、実際に戦地で指揮を取りました。
塾生が勉強した大部屋には、出身県別の塾生のリストが掲示してあり山口県が56名で最多でした。当時の長州藩には松下村塾や明倫館がありましたが、そこだけでなく、他藩まで多くの若者が勉強に出かけていっていたということです。長州藩が明治維新を成し遂げれられたのは、この学問への意識とレベルの高さがあることとは無関係ではないでしょう。

もうひとつ、面白いことを見つけました。大村益次郎の一代前の第3代塾頭は久坂玄機だったそうです。久坂玄機は、いま盛んに「花燃ゆ」に出ている久坂玄瑞の兄です。玄瑞は、村田蔵六(後の大村益次郎)が江戸に開いた鳩居堂(きゅうきょどう)で1858年(安政5年)に学んでいます。萩の松下村塾や明倫館では学んでいない大村が、久坂兄弟と江戸や大坂の塾で関わりをもっているのが面白いですね。

適塾を見た後に、1時間ばかり歩いて大村益次郎殉難報国之碑に行きました。1869年に京都で、大村は同じ長州藩の神代直人らに襲われたあとに、大阪に移され、緒方洪庵の息子緒方維準らの治療を受けますが、亡くなってしまいます。その病院があった地に大きな石碑が建っていました。

 

2015年5月25日

5月20,21日と国立大学法人14大学理学部長会議のため、富山に行ってきました。国立大学法人で理学部をもつ大学は32ありますが、そのうち旧制高校を前身とする同じ様な歴史的経緯をもつ14の大学の理学部長の会議です。議題として理学部のイノベーションとの関わりや高大接続に関わる入学試験の変更などがあり、活発な意見交換が行われました。昨年は山口大学がホスト校だったので少し大変でしたが、今回はじっくりと議論に参加することができました。

私自身は、富山市は2回目になります。前回は10年前の初夏の頃だったように思いますが、フェーン現象でとても蒸し暑かったのを覚えています。今回は気候もよく、市内から立山連峰がきれいに見えました。駅前も広々としていてきもちがよく、とてもきれいに整備されていました。富山はコンパクトシティを掲げた街づくりをして、視察に訪れる他自治体の人たちも多いそうです。

富山駅から会議の会場まで歩いて行きましたが、その途中に「cyclocity」という貸し自転車コーナーを見つけました。観光客の足としても市民がちょっとした用事で使うのにも便利がよさそうで、計画的に路線化されている路面電車と併せて、交通体系がしっかりと考えられていると思いました。歩いた道は「ノーベル街道」と命名されていて、岐阜県にかけての9kmの道に、田中耕一、利根川進、小柴昌俊、白川英樹の4名のノーベル賞受賞者ゆかりの地があるそうです。

これから別件で東京で仕事です。この原稿は、北陸新幹線の上り列車の中で書いています。ヘッドレストは可動式ですし、電源や飲み物ホルダーも各シートにあり、かなり快適です。足元も広いような気がします。一部ですが北陸新幹線はJR西日本も運行しているので、山陽新幹線もこのタイプの車両にしてくれないでしょうか。

 

2015年5月7日

皆さんゴールデンウイークはどのように過ごされたでしょうか。私は、例によって、周防大島に幕末遺跡探訪に行ってきました。世良修蔵の招魂碑を訪れたことは1月5日のつぶやきで書きましたが、生誕地にも石碑が建てられているとのことなので、5月4日に探しに行ってきました。しかし、なかなか見つけることが出来ず、1時間ぐらい歩き回って諦めて帰ろうとしたときに、近所の方(温品さん)に声をかけて見たところ、親切に教えてくださいました。石碑だけでなく、世良姓のご子孫もそこに住まれているということで、とても驚きました。世良修蔵の旧姓は中司で、阿月(柳井市)の克己堂で修学した後に世良姓に変わっているからです(1月5日のつぶやき参照)。

温品さんに案内して頂き、石碑までたどり着きました。それは、畑を奥深く入ったところにありました。これでは、見つけることができなかったのも無理はありません。さらに、ご子孫の世良さん宅に声をかけて頂き、直接世良さんに色々話を聞くことができました。世良修蔵の死後は、甥の方が世良姓を継がれ、この誕生地で代々家を守っているとのことでした。世良修蔵ら清狂草堂の門下生が大きく取り上げられることは少ないですが、松下村塾の門下生と引けを取らない活躍をしたことは間違いなく、しっかりと語り継いで行かないといけないと感じました。椋野の世良さん、温品さん大変お世話になり、ありがとうございました。

 

2015年4月27日

1866年、幕府は長州藩に攻めいります。その戦いを長州征伐と言いますが、山口ではこれを四境戦争と呼びます。石州口、芸州口、大島口、小倉口の4つの国境で戦いが行われたからです。石州口の益田市については9月29日の、大島口の周防大島町については1月5日のつぶやきで少し書きましたが、先週の土曜日に芸州口の広島県廿日市市大野町に行ってきました。

広島岩国道路を広島方面に行くと、大野インター前に「残念さん」という看板があるのを見たことはありませんか。この看板の奥に「残念社」という神社があります。このあたりは、芸州口の古戦場で、軍使として長州軍営に赴く途中に長州軍に戦闘員と勘違いされて狙撃され、「残念」と言って倒れて亡くなった幕府側の依田伴蔵が祭ってあります。

残念さんのすぐ近くには、吉田松陰が江戸に護送されるときに休憩をとったと言われる腰掛けの岩があります。松陰は萩を去るとき、萩の町が見える境の地の涙松で句を詠みますが、長州とは、遙かに見える周防大島を望みながらここで別れを告げたと言われています。

1859年、吉田松陰は江戸で処刑されます。まさか松陰は、その7年後に、自分が故郷に別れを告げたその場所で、長州と幕府の戦いが繰り広げられるとは思ってもみなかったでしょう。

 

2015年4月6日

4月になりました。お花見のシーズンです。私の研究室では4月3日が花見の予定だったのですが、あいにくの荒天で4月10日に延期になってしまいました。もう桜の花は散ってしまっているでしょうが、まあ、花より団子という言葉もありますから、せいぜい宴会を楽しもうと思います。
3月21日のつぶやきで、桜のつぼみの写真を載せました。4月4日にその場所に行ってみましたが、もう花の多くは散っていて、葉が出ていました。満開の花を見たかったので、少し残念です。


前に研究会で一緒になった他大学の先生から、「今年はお花見に行かれますか?」というメールが来ました。花見のついでに、花びら表面を綿棒で拭ったサンプルを取ってもらえないか、という依頼でした。
ソメイヨシノは種子で増えることはなく、接ぎ木によってしか数は増えません。つまり、ソメイヨシノはどれも同じDNAを持っています。これを生物学ではクローンといいます。花びら表面には色んな種類の細菌がいますが、環境が違えば、そこにいる細菌も違うものが棲息していると考えられます。例えば、青森と山口では気温差による細菌の違いが見えるのでは、というわけです。ソメイヨシノはクローンですから、細菌の違いは環境の違いを表しています。


4月3日にサンプルを取る予定でしたが、研究室の学生が気を利かせて天気予報を調べてくれ、この日は雨のようなので、私がドイツ出張中の3月31日に採取してくれました。全国から集められたサンプルは、最新の装置である次世代シークエンサーで解析され、クローン生物が置かれた環境の違いによる細菌の種類の違いが明らかにされるようです。果たして山口の桜にはどのような特徴があるのでしょうか。

 

(ホームページ)

お花見メタゲノムプロジェクト:http://www.ngs-sakura.jp/

 

2015年3月31日

3月19日のつぶやきでは、ドイツからの研究者を招待してセミナーを行ったことを書きましたが、今度は私がドイツにやってきました。ビーレフェルド(Bielefeld)大学のラルフ・ホフェフスタット(Ralf Hofestaedt)教授と細胞シミュレーション技法についての研究打合せをするためです。

ビーレフェルドはドイツの北西部にあり、山口市と雰囲気の似た落ち着いた街です。2003年、2010年に続き、3回目の訪問となりました。3月29日はディスカッションの後に、ドイツ料理を食べに市の中心部にあるパブに出かけました。ホフェスタット教授は、社会情勢に詳しく、ウクライナ問題やドイツのLCC飛行機の事故、さらには東北での地震や原子力発電所の事故などの話が主でした。ドイツ語で話していたので、内容は分かりませんが、店の従業員とも真剣に社会情勢の話をしていました。

翌30日は、私から最近の研究成果をプレゼンしたあとに、彼の研究室で行っている新しい研究の話を大学院生達から聞きました。複数の細胞反応データベースから効率よく情報を統合的に収集する方法や、医師が患者に対して、副作用が少なく適切な薬を与えることを支援するツールの話でした。細胞シミュレーションへの新しい展開が窺え、彼らの今後の研究に期待したいと思います。

今日の20時にデュッセルドルフ空港を発つ飛行機で帰国します。これが今年度最後のつぶやきとなりました。来年度もよろしくお付き合いください。

2015年3月21日

今日は春分の日です。土曜日ですが、ちょっと仕事が貯まっているので、大学に出て来ました。暖かかったので、自転車でやってきました。
途中で山口線の沿線で多くの人がSLが来るのを待っていました。今日がSLやまぐち号の今年の運転開始日です。私も途中で自転車を止めて写真を撮りました。山陽本線は当初は山口市を通る計画であったことをご存じでしょうか。当時の山口市民がSLの火の粉で火事になるなどの理由で反対し、実現しなかったのでした。でも、今は観光のためにわざわざSLを誘致して運行しているのですから、不思議なものです。
椹野川沿いには桜の木が多く植えてあります。まだ開花はしていませんが、近づいてよく見てみると、赤色のつぼみが沢山ついていました。このつぼみの花が咲くころに、また写真を撮りに来ようと思います。

2015年3月20日

3月17日に理学部生命パスウェイ解析センターの主催でシステム生物学の国際セミナーが行われ、ベルリン自由大学(ドイツ)のHeike Siebert博士とハルビン工業大学(中国)の劉飛(Fei, Liu)博士から話題提供して頂きました。どちらも数理的手法を使って、細胞内の反応や細胞の状態変化を正確に詳細に解析しようとする研究です。生物分野や数理科学分野の先生方の参加を得ることもでき、活発な議論がされ、私にとっても久しぶりに頭をフル回転した充実した時間でした。

夜は、メディア基盤センターの杉井先生、理学部のアドリエン先生も交えて夕食をご一緒しました。特にHeikeさんは初来日ということで、和食のコース料理に興味津々でしたが、海老のおどりぐいが出されたときには、さすがにビックリしていました。でも、ちゃんと手で処理して上手に食べていました。日本慣れしているアドリエン先生は余裕で食べていました。
劉さんは、7月から外国人研究員として10ヶ月滞在されます。これからの共同研究の進展が楽しみです。

 

2015年3月9日

先週の後半は出張にでかけました。3月4日は仕事が終わってから福岡の田川市に移動しました。3月5日から開催される九州工業大学が主催する生命情報学の国際シンポジウムに参加するためです。私は、田さんと行った大腸菌の細胞シミュレーションの話をしました。なぜ大腸菌?と思われるかもしれませんが、実は大腸菌とヒトには共通したところがあり、代謝に関わる中心部分(解糖経路)は殆ど同じです。人間としては複雑ですが、大腸菌を研究することは、ヒトを研究することと同じという訳です。
シンポジウムでは、下関でイノベーション活性化活動を行っておられる森若幸次郎さんにもお会いしました。山口県をデザイン思考とクリエイティビティを元に活性化したいとの思いを熱く語っておられました。

講演が終わってから田川市を離れ、山口宇部空港から東京に移動しました。四ッ谷の近くで会議があったのですが、少し早めに着いたので、付近をウロウロしていたところ、迎賓館を見つけました。テレビ等では何度も見たことがありますが、四ッ谷にあることは知りませんでした。門の前では、年配の女性の2人組が太極拳をやっていました。東京には仕事で多く行きますが、ちょっとした時間を使ってたまに散策してみるものいいものだと思いました。

 

2015年2月23日

先週の土曜日に長門まで出かけて来ました。目的はいつもの幕末歴史スポット探訪です。山口市内から吉敷を抜けて美祢市美東に入り、高杉晋作らの正義派と萩政府軍の俗論派が戦った大田・絵堂の地を通り抜け、村田清風記念館を目指しました。途中で、桜楓山荘跡への誘導看板を見つけたので、先にそちらに立ち寄りました。この旧宅の存在は知っていたのですが、場所が分からないまま出かけたので、ラッキーでした。

桜楓(おうふう)山荘は、楫取素彦とその妻である寿の旧宅です。花燃ゆの主人公の文ではなく、その姉の寿とここで暮らしていました。1870年(明治3年)から約2年間の僅かな期間だったようですが、寿は女性には裁縫を子ども達には読み書きを教えるなどして、地元の人たちに慕われていたそうです。素彦と寿が上京した後のしばらくの間、この家を文が守っていたとのことですので、花燃ゆでもこの桜楓荘が出てくるかもしれません。

ここから車で10分程度走ったところに村田清風記念館があります。長州藩が幕末に活躍できたのは、村田清風のおかげといっても間違いないでしょう。その理由は2つあります。まず第一に、彼は倹約を徹底し、四白(紙・蝋・米・塩)政策を進め、大借金状態だった長州藩の財政を立て直しました。この財政再建が、後に幕末の長州藩の活動を支えることになります。
第二に挙げられるのは、彼は周布政之助の指導者であったということです。周布政之助のことは、9月29日のつぶやきで少し書きましたが、彼は幕府対抗の考えをもつ正義派の家老で、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文らを支援しました。つまり、"村田清風-周布政之助ライン"が長州藩が倒幕へと向かう基本路線をつくったと言ってもいいでしょう。
記念館の第一展示室には、村田清風と周布政之助の業績と生涯が、第二展示室には四白政策と地元三隅の民具が展示してありました。

このあと、萩まで足を伸ばし、藩校明倫館跡に行きました。無料の山陰道を使って約30分で長門市三隅から萩市内まで入ることができました。明倫館を大拡張し、藩の人材育成を充実させたのも村田清風でした。
この明倫館は、1718年に創設され、1867年に廃館になっています。山口明倫館が山口講習堂からの改称によって設立されたのが1863年で、これは藩庁が萩から山口に移されたタイミングでした。つまり、4年間は2つの明倫館が並立したものの、分校であった山口明倫館が本校になり、本校であった萩明倫館は廃止されたということになります。だとすると、「山口大学の前身は明倫館」とも言えそうですが、これは大胆すぎる考えでしょうか?

2015年2月13日

2月6日14時30分から理学部11番教室で「第1回キャリアデザインのための女子学生懇談会」を開催し、20名を越える参加者がありました。これは、大学院進学に関心のある理学部の女子学生を対象に行われたもので、今年度から設置された女性研究者支援室が主催したものです。

女性研究者支援室長の山﨑鈴子先生が、女性研究者が活躍する場を充実させて行くことについての背景や、国内外の女性研究者の割合や職種、理学部における進学や就職の状況について統計データを参照しながら説明されました。
これに続いて、博士後期課程に在籍中の垣内田翔子さん(情報科学)が、大学院での研究活動や、1年間の留学生活などについて講演しました。留学体験記はここに詳しく書いてありますので、ご覧ください。

私は他の会議があったため中座したのですが、講演のあとの座談会も盛り上がったようです。参加者のアンケートには次のようなことが書いてあって、好評だったようです。時間が合えば、次回も参加したいと思います。

 

  • 院の話を聞くだけでなく、海外に行かれた方の話も聞けたのがとても良かった。
  • 今私は院に行くか学部卒で就職するかどうか悩んでいるのですが、院に行くことで得るメリットをたくさん知ることができ、院に進学しようかと強く考えるようになりました。
  • 大学院生とお話したいと思っても研究室に行きにくいので、こういう機会をもっといただければいいなと思いました。

 

2015年2月9日

前回の1月20日のつぶやきから、2週間以上間が空いてしまいましたが、2月最初のつぶやきをお届けします。1月後半から2月は卒業論文、修士論文、博士論文の追い込みで、大学教員にとっては、一年で一番忙しい時期なのです。

1月28日の午後にノーベル物理学賞を受賞された名古屋大学の天野浩先生の講演会が行われました。今回の主会場は工学部で、山口市の吉田キャンパスにも遠隔講義システムを使って配信されました。「物理学賞」と聴くと理学部を連想しますが、天野先生は名古屋大学の工学部のご所属で、出身も工学部です。山口大学工学部にもLEDの研究をしている研究室があって、その繋がりで今回の講演会が実現したというわけです。
ノーベル賞受賞者の講演が学内で行われるのは、2011年の同じくノーベル物理学賞の益川敏英先生以来です。このときは、理学部の物理分野の先生が中心となって企画がされたと記憶しています。学部長室にはこの益川先生の色紙が飾ってありますので、今回も工学部にお願いして天野先生の色紙も書いて頂きました。まだ台の上に置いてありますが、額が来ましたら、益川先生の色紙と並べて掲示します。

この台の上には、私が海外に出かけたときに現地で購入した小物が飾ってあります。写真には6点ありますが、分かりにくそうなものだけ説明します。
前列最左「緑と赤の人形と白い車」は旧東ドイツのものです。2つの人形はアンペルマンと言って、信号機に使われていた形なのですが、形がよいのか、東西統一後もまだ使われています。白い車は東ドイツで噴煙を出して走っていた自動車です。さすがにこれが走っているのは見かけませんでした。
後列最右は、スペインのパンプローナ市近郊にあるサビエル城です。5月12日のつぶやきをご覧ください。このときに、サビエル城の前にあるレストランのお店で購入したものです。

 

2015年1月20日

1月も半ばとなり、学生達は卒業論文と修士論文の作成に追われています。1月19日に研究室の進捗状況の報告会を行ないました。今回は、主にアドリエン先生の担当する学生達が発表しました。彼らの発表は英語で行ない、卒業論文も英語で執筆します。4月に研究室に配属されたときは、英語で研究を進めていくことができるのか不安だったようですが、発表を聞いて、アドリエン先生の指導内容をきちんと理解していて、研究が進んでいることが確認できました。やはり若い人の上達は早いですね。彼らも「やればなんとかなるもんだ」ということが実感できたでしょう。

研究室は研究のまとめと論文作成をする学生の熱気が充満しています。寝袋を持ち込んで遅くまで作業をしている学生もいるようです。インフルエンザも流行っていますので、健康には気をつけて、どの学生も自分が納得できる研究成果をまとめて欲しいものです。

 

2015年1月5日

新年おめでとうございます。今年もこの学部長のつぶやきにお付き合いください。

昨日の日曜日からNHKの大河ドラマの「花燃ゆ」が始まりました。この中で何度も「明倫館」という言葉が聞かれました。明倫館は長州藩の最高学府といってよい藩校で、山口大学の前身です。ドラマの舞台となっている松下村塾は吉田松陰が主宰している私塾で、ここの門下生には、有名な人が多いですが、長州藩で活躍したのはその人たちばかりではありません。

年末から年始にかけての冬休みに、柳井市大畠にある清狂草堂(9月9日のつぶやきを参照)や同市阿月にある克己堂(こっきどう)に行ってきました。この2つの学校の門下生に、赤祢武人という奇兵隊の第3代総督を勤めた人物がいます。初代の総督は言わずと知れた高杉晋作ですが、彼が総督だったのは僅か3ヶ月だけです。それに比べて、赤祢武人は1863年10月から1年以上総督を勤めています。

1864年暮れに高杉晋作は下関の功山寺で挙兵し、翌年の大田絵堂の戦いで萩政府軍に勝利し、藩論を恭順から倒幕へ転換させますが、この挙兵時には奇兵隊は参加していません。このときに総督であった赤祢武人は藩内の内戦を好まなかったためで、これで彼は高杉らと対立します。

私には、当時、内戦をせずに融和的な解決を図ろうとした赤祢武人の方が正しいように思います。しかし、結果は違いました。高杉晋作らが決起し、長州藩の保守派を破ったことで、明治維新が成し遂げられて行きます。もしも、保守派が勝っていたら、歴史のヒーローは高杉でなく、赤祢だったかも知れません。

赤祢は藩内での立場を失い、幕府との関わりを持ったことなどが疑われ逃亡しますが、生誕地である柱島(岩国市)で捉えられ、1866年に山口市の鰐石で処刑され(赤祢武人の碑:9月9日のつぶやきを参照)、その首は罪人同様にさらされたそうです。彼の墓は、生誕地の柱島、克己堂があった阿月、下関の東行庵の3箇所にありますが、主の墓は、彼が赤祢の姓を得た(前は松崎武人)、阿月の墓でしょう。その墓は、道路から細い山道を250mも登った、ひっそりとしたところにありました。

同じ清狂草堂出身の世良修蔵の生誕地の周防大島町椋野にも行ってみました。
四境戦争で、一時幕府に占領された周防大島を奪還するため、高杉晋作が下関から戦艦で駆けつけたことがよく言われます。しかし、一番の立役者は綿密な作戦をたてて、幕府軍を打ち破った世良修蔵です。彼の招魂碑も椋野の細い道を登った山手の地にひっそりと建っていました。

歴史は勝利したものが作ると言われますが、このように、幕府に勝利した長州藩の中でも明暗があります。山口大学の創基200周年記念のキャッチフレーズは『「志」つなぎ伝える二百年』です。光のあたる場所で活躍した志士はもちろんのこと、陰で支えた志士たちの「志」もつなぎ伝えて行く責任と使命が、江戸時代末期から200年の歴史をもつ山口大学にはあると思います。

清狂草堂。周防大島の対岸の大畠にあります。来訪者は少ないようで、受付の女性が月性展示館を丁寧に案内してくれました。
克己堂。清狂草堂から30分ぐらい車で走ったところにあります。創設者の浦靱負(うらゆきえ)は毛利藩の重臣でした。
柳井市阿月にある赤祢武人の墓(写真中央)。赤祢は松下村塾の門下生でもあります。

周防大島町椋野にある世良修蔵の招魂碑。大島奪還の立役者ですが、高杉晋作の軍艦での夜襲攻撃ばかりが語られています。
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